「きみって職場でモテるほう?生徒から何か物を貰ったりしていない?」
「うちは男子校ですけど」
それが一昨日の朝の会話。
「確率の問題じゃないんだよ、俺が今、指摘してるのは。それに同僚だっているんだし」
眠気覚ましのコーヒーをすすり、右手の人差し指でくるくると空中に円を描きながら、フィガロは言った。
「数字は一つの判断材料になるって俺に言ったのはあなただったと思いますけど。まあ、そうですね。同僚は……気にしたことないなぁ。皆さんさっぱりしてらっしゃるし。それに俺、自分で言うのもなんですけど、生徒さんにも舐められる方なので、心配するようなことは何も無いと思いますよ。」
「甘いね。きみは自分のことを過小評価してる。色恋のごたごたには誰だって巻き込まれる可能性がある、構えすぎる必要はないけれど、自覚しておいて。だいいち、恋と性欲を理性的に切り分けるのなんて、大人でも出来ない手合いが居るのにだよ」
「はあ、つまり……何の話でしょうか」
いまいち要領を得ない顔で晶が応じる。
事の発端は昨年末に二人で買いに行った結婚指輪だった。
学校が冬休みに入ると、知り合いに会うことがほとんどなくなった為、晶は惜しまず毎日指輪をしていた。双子の家の新年会に招かれた元日も、寒さで頬や指先を赤く染めて、そわそわしながら玄関前に立つ伴侶の手元にしっかり嵌められているそれを、微笑ましく見守ったフィガロだった。それが松の内を過ぎ、仕事始めの支度をしている朝。既婚であることを隠している訳ではないが、公言するつもりもないと言っていた職場に、指輪をしていこうと思う、と、朝食の席で晶が述べたのだ。
「やめておいたら?」
「どうして。フィガロの主張でいくと、していた方が予防にもなりますよね?」
「逆、逆。わざわざ意識させるような餌を与えることはない。あの年ごろの青少年は、ほら、多感だから」
ボールペン一本渡しても、妄想を広げるよ。と続く。
「餌って……考えすぎでは」
「まあ、そうかもしれないけれど。万が一を起こすよりもいいだろう?」
同窓会の時のことを、フィガロがずっと気にかけているというのは晶にもわかっている。
「心配してくれるのは、凄く嬉しいですよ。でも……盾にしていいって言ったのもフィガロなのに」
「本当に盾になるだけなら一つも止めないよ。俺だって出来ることなら、君を取り囲む環境が善意と繊細な気遣いに溢れていて欲しいと願うけれども、下衆の勘繰りをするやつはどこにでも居るものだし、君に傷付いて欲しくないから。物は使いようだよ、ね?晶先生」
机の上で組んだ腕に身を乗り上げたフィガロが、首をちょこっと傾げて告げる。
「はい……」
「そういえば、去年新しく来た英語の先生って女の子だったね」
「ああ、ええ、女性ですけど。一年の英語担当の……面倒見のいい方ですよ」
「その子って俺のこと知ってる?」
晶は、どうでしょう、と考える素振りを見せたが、諸々の書類を提出する事務の人間と上司以外には、直接話さなければならない機会はない為、分からない。職員室で、自分の居ない内に話題に上っている可能性が無きにしも非ず、ではある。
「彼女は、うーん。俺に興味無いと思いますけど……何かあるんですか?」
「どうだか。……ねえ、その彼女、猫を飼ってない?」
問われて、彼女との初対面の頃のことを思い返してみる。挨拶の折、自己紹介で猫が好きだと話したことで、少しやりとりがあったことに思い至った。ついでに彼女の家で飼われているという猫の名前と写真を思い出し、一人微笑む。
「ええ、はい。確かそうだったと」
フィガロは、なるほどと得心のいった顔で一人頷き、不思議そうに見上げる晶には解答を与えず、その日はそのまま議論を終えた。
一日置いた土曜の午後、その彼女、噂の同僚が届け物をしに来たのが今日。晶は午前の補修を終えて、今から買い物をして帰ります、とメッセージを送ってきていた。インターフォンで二言三言受け答えをしたフィガロは、いいタイミングだなと笑って彼女を出迎える。
「突然すみません。ご連絡差し上げたんですけど、返信が無かったので、ポストに入れちゃおうかとも思ったんですけど……真木先生のご友人ですか?」
およそアポなしで休日に同僚宅を訪ねるようなタイプには見えない、育ちの良さそうなお嬢さんだ。何か用事のついでに立ち寄った風な、余所行きの身なりであることも見て取れる。不自然にならない程度に訪問者を一瞥して、あざといなあ、と内心肩をすくめながら受け応える。
「こんにちは、晶の同僚さん?はじめまして。身内ですから、俺が渡しておきますよ」
「あら、ご家族の方。失礼しました」
「ええ、夫のフィガロ・ガルシアです。晶がいつもお世話になってます」
慣れた口振りで自己紹介を済ませ、人好きのする完璧な笑顔で握手を求めた。丁寧に手入れされたブロンドの彼女が驚いたように口を開けた。差し出しかけた手がフィガロの手に触れる手前で静止する。
見かけの人種からして、こうも接点の無さそうな人間が出てきて、家族だと言われれば、養子か、伴侶か、あるいは義兄弟だとか、ぱっと思いつく中から年齢性別でバツを付けていき、絞り込めるだろうが。彼女の鈍い反応から、よほど予想外だったと見て取れる。
「真木先生って、ご結婚なさってたんですね」
「まあ、長く一緒に住んではいたんだけど、色々あって。去年やっとね。だから新婚ホヤホヤでもあるんだ」
露骨にショックを受けている様子の彼女に悪びれる気もなくフィガロは、空にほっぽり出されて固まる細い手を自ら取り、わざわざ見せるように左手を添えて軽く上下させると、強制的に握手を成立させた。押せば行けるとモーションをかけに来たとしても、下調べが甘い。少し世間知らずな質だろうか。
「それで、届け物っていうのは」
「あっと、ああ、そうこれ。これでして……書類が回って来るのがギリギリだったんですけど、提出が来週の火曜までなので、今日渡さないとと思って」
「あの子、もうすぐ帰ると思うんだけど。タイミングが悪くてごめんね」
どの口が、と突っ込める者は、生憎この場に居なかった。
「晶は職場でどう?真面目な性格なんだけど、少しうっかりしているところもあるから。きみにも何か迷惑をかけたりしていないといいんだけど」
「あっ……いえ、真木先生は優しくて、とっても親切ですよ。私こそ、いつもお世話になっているので、お礼を言っても足りないくらいで……」
「そう?本当?それはよかった。じゃあ、これありがとうね。伝えておくから」
「はい、失礼します……」
「ああそれと」
必死に取り繕ってはいたが、幾分気落ちした様子でふらふらと立ち去る女を、軽く呼び止める。
「人に物を送る時には、プレゼントに猫の毛がついていないかどうかぐらいは確認した方がいいよ。いくら相手が猫好きでもね」
微笑んで、追い射ちをかけた。
その後、蜜柑を箱買いしたから迎えに来て欲しいと言う夫の求めに応じ、車で駅前に乗りつける。寒空の下ロータリーで一人、両手でダンボールを抱えて、妙に嬉しそうに立っている晶を視界に入れると、思わず口から白い息が漏れ出た。フィガロに気付いてよたよた寄って来る姿には何故か、子供の頃読んだ物語に出てくる、ぬいぐるみのような子ぐまを思い出す。
「パディントン」
「え?なんですって?」
フィガロが苦笑を浮かべながら首を振った。
「いいや。それにしても、あんまり鈍感なタイプじゃなかったと思うんだけどなあ。やっぱりきみの自己評価と実際に、少し齟齬があるよ。それか、齟齬が出来たのかな」
「そご……あの、俺何かしましたか?」
「なんでもないよ。かしてごらん」
つい先ほど、一回り以上歳の離れた異性相手に執拗に牽制し、しまいに追いかけて背中から殴るような真似をした男とは到底思えない、優しく気遣いの出来る良い伴侶の顔で、重たそうな荷物を受け取った。
助手席に乗り込む晶の、夜色の髪が揺れるのを一瞥してフィガロは、来訪者の出で立ちを思い返す。相手が大人であれば、よっぽど処理が簡単だ。学校関係者であれば、遅かれ早かれアプローチの場を学外に持ち出そうとするのだから、端から自分が払いのければいい。外部の人間であっても同様に、いずれ自らフィガロの手の届く範囲に入って来る。やはり気を配るのなら、部外者の目の届かない、学校という閉鎖空間に守られている子供相手のほうだろう。
余談だが、彼の懸念の根であるパディントンもとい真木晶が、今日ほど露骨な好意を向けられることはこの後の生涯、一度も起こらず、また、人知れず片思いを散らせる純情な学生が教え子の中に一人二人、かろうじて現れることも、その事実が当人の胸の内だけの淡い思い出として葬られることも知らないまま。フィガロは、指輪はもう少し様子を見させようと独り言ちた。
2020.12.15-2023.03.10 微修正