手の鳴るほうへ

「はじめまして、えーっと、フィガロさんでしたよね?」
「はいはじめまして。晶がいつもお世話になってます?」
二人の間に流れる空気を言い表す言葉は「微妙」以外に無かった。お互い、こんな対面の仕方をするとは思っていなかったせいもある。

来週頭の講義に使う資料の整理がひと段落して、寝る支度をしている時のことだった。ポケットの中でプライベート用のスマホが二度ほど短く震え、メッセージアプリへの着信を知らせた。この端末で通知が来るように設定している相手はそう多くはない。通知相手のおおよその検討が付いたが、取り出そうとすると今度は長く鳴動し始める。見ると、丸く切り取られた晶の顔が画面中央に表示されている。電話だった。しかし出ようとした瞬間切れる。暫く考え、折り返し掛けようとしたところで手中の端末が再び短く震えた。今度はメッセージだ。アプリを開いて未読分を確認する。
――いまから、かまえりまさ
画面を数秒眺めたのち、帰ります、の誤入力だと思い至った。
――今日はダメでた
――ちょっと、れ
意図の読み取れるような読み取れないような、絶妙に手元の狂った文がいくつか続き、その下に着信履歴。
――すみません、家の方で合っていますか?晶が酔ってしまっていて一人で帰すのは危ないので、家まで送ります。20分くらいで着くと思います。この携帯の充電が無くなりそうなので、念のため俺の電話番号をお伝えしておきます。大丈夫だと思うけど、30分以上経っても辿り着かなかったら連絡いただけると助かります。
突然正気に戻ったかのような流暢な文章が出てきてギャップに吹き出しかける。しかし送り手は晶ではなかった。主語が無かったが、家の住所が分かるのなら恐らく親しい友人の内の誰かだろう。更に電話番号が続く。
――08-xx-xx-xx-xx クロエ・コリンズ
クロエだった。名前と写真の中の顔だけ知っている、晶に度々話を聞かされてきた高校時代からの友人。彼が付いているのなら滅多な事にはならないだろうが、念の為車のキーを手に取ると、ひとまず落ち着いてキッチンへと足を向けた。

高校の同窓会だった。クラス単位ではなく学年規模のパーティのような催しで、高校時代は友人こそ居たが交友範囲は狭くも広くもなく、教室の隅の方で大人しく笑っているようなタイプだったという晶は、知っているような知らないような懐かしい顔ぶれで派手に騒ぐ場に赴くのには、若干の躊躇いがあるらしい。行くか行かないか返答期限のギリギリまで悩んでいた。それでもクロエが参加すると言うのを決め手に、参加に丸を付けて返信したのだ。そして今日がその当日。午後4時過ぎに、帰りはあまり遅くならないようにしますと言って出て行く晶を、まあみんなもう社会に出て数年経つし、落ち着いてきた頃だから心配は要らないだろうと、コーヒーを飲みながら送り出したフィガロだった。それがどうしてこうなったのか。予想よりも帰りが遅いのはきっと楽しめているからだろうと考えていたのだが。

連絡からおおよそ20分丁度にエントランスからのベルが鳴った。更に数分後にドアフォンが。一瞬だけ画面を確認すると、用意していた水とタオルを持って足早に出迎える。ドアから吹き込む初秋の夜の肌寒い空気に軽く肌が泡立ったが、寒いとまでは思わなかった。玄関の前に立っていたのは、片腕に二人分の荷物を提げた赤毛の印象的な青年。そしてその、自慢の友人の首に正面から両腕を回し、ハグをするような体制でもたれ掛かるブルネットの男。この情けなくへしゃげた黒髪の酔っ払いが、現在のフィガロの法律上の夫にあたる。
「浮気の現場かな」
「わあ!違うんです!あの……すみません。凄く酔ってて、放っておくとフラフラして危なっかしくて……」
「冗談だよ。きみは知っていると思うけど、俺たちは恋人じゃないから。手間をかけさせてごめんね、ここまでありがとう。クロエ」
念の為確認するよう名前を呼ぶと、クロエは少し困った様子で頷き、笑おうとして失敗していた。ここで冒頭へ戻る。

お互いに上辺を軽く一撫でする程度の自己紹介を済ませると、靴を脱がせてから、雌の猫ほどぐにゃぐにゃになっている晶を受け取る。いつもとは真逆の立場で不思議な心地がした。
「フィガロでいいよ。きみ、日本語が上手いけど外の暮らしが長いだろ」
「俺のこと、晶から聞いてますか?」
「いや、電話番号の書き方で。まあ俺も生まれ育ちは他所だから、見ればなんとなく分かるところがあるんだよ。それにしてもどうしたもんかな、うちの旦那様は」
「俺もずっと一緒に居たわけじゃないので、詳しくは分からないんですけど……気付いたらこうなっていて。お酒は得意じゃないってこと、知っていたのに……」
受け取る時、ん、だか、あ、だか離れる体温を名残惜しそうにクロエへ向けて手を伸ばした晶だったが、フィガロは構わず引きはがす。荷物は下足箱の上に置くように頼んだ。
「どうか気に病まないで。送り届けてくれてありがとう。二人とも大人だし、飲むことを自分で決めたのならこの子の責任だ」
「いえ……それが、断れないほど強く勧められたか、無理やり飲まされたみたいなんです。叱らないであげて」
「ああ、なるほど……まあ、そうだろうね。わかった、叱らないよ」
言いながら受け取った晶の様子をあらためる。嗅ぎなれない他人のにおいが微かに香って妙な心地がした。しかし、酔っ払い独特の強烈な酒気は無い。一般的なたくさんと言うほどの量は飲んでいないのが分かったが、薄手の柔らかいシャツの襟ぐりに指をかけて確認すると、案の定背中まで赤くなっている。見ていたクロエがどことなく居心地悪そうに視線をそらした。
「何度か手洗いにも行っていたので、その分水は飲ませたんですけど……」
「うん、大丈夫。それでいいよ」
髪をかきわけて斜め上から顔を覗き込むと、触れた指の冷たさに腕の中のぐにゃぐにゃが呻いた。寒そうにすり寄ってくるので、持ってきたタオルを肩にかけてやる。
「あきら、おかえり。飲んだねえ、きみ」
ぼんやりとした眼は、己を抱えるフィガロの胸のあたりを彷徨っている。
「たらいま」
思ったよりも呂律が回っていなかった。
「よかった、意識はあるね。俺がわかる?」
「ふぃがろれす」
「うん、きみのフィガロ。気分はどうかな」
「ごめんらさい」
「なにがごめんなのかは後で聞くから。リビングまで歩ける?つらければここに座ってもいい。きみの家なんだから…………そう、無理はしないで」
晶は何度か歩こうとする素振りを見せたが、やはり気分が悪いらしく、壁に縋ってずるずるとその場に膝をついた。フィガロも身体を支えながら一緒に腰を落とすと、背中をさするように撫でる。
「吐きそう?」
口元を手で押さえて、拒否の意を示すようにゆるゆると首を振った。
「もうなにもれません」
「なるほど」
晶の物であろう、飲みかけの水のペットボトルをクロエが差し出す。
「あの俺、終電が早くて、もう行かなくちゃならないんです」
「ああ、そうだよね。遅くまでごめんね。本当ならお詫びも兼ねて、家まで車で送りたいところなんだけど……」
「気持ちだけで充分です。傍に付いていてあげて」
「そうさせてもらうよ。あとのことは任せて。こう見えて俺は医師免許も持ってるから」
フィガロの型破りな経歴を晶から又聞きしているクロエは、知ってます、とは言わないまでも頷いて立ち上がる。立ち上がる前に、晶に一声かけるのも忘れずに。
「ごめんね晶、俺帰らなきゃ。また連絡するからね」
肩に触れられた晶は、頭が振れない程度小さく頷くと、迷惑かけてごめんなさい、というような意味の音を呟いた。相変わらず呂律が回っていなかったが、フィガロが聞き取れた限りではそのようだった。
「いいよ、謝らないで。……それじゃあフィガロ」
念を押すように名前を呼ばれると、見上げたフィガロがちらりと笑う。悪い気はしなかった。大事な身内に、同じくらい大事に思ってくれる友人が居ること、その友人から自分は任される立場に居ること。今の自分が確かに晶の最後の受け皿である事実には、背筋を這い登るぞくぞくとした多幸感があった。

廊下に二人で腰を下ろして、フィガロは晶の背中をさすりながら落ち着くのを待ったが、クロエが帰っていき玄関のドアが閉まってもなお、寒そうに両腕を抱き絞め背を丸めていたので、一声かけて抱え上げた。普段なら声を上げるところだったが、何も言わずに大人しく抱えられていることからも酩酊具合が窺える。リビングに移動すると、ソファに下ろして楽な体制を取らせた。椅子の背にかかっていた自分の上着も持ってきてかけてやる。水を数口嚥下したあと、ソファの背に縋って大人しくしている晶を眺めながら、フィガロは一人、この家で似たようなことが幾度かあったのを思い出していた。最も、いつの日でも深酒して醜態を晒していたのはフィガロのほうだったが。
「ごめんなさい」
ソファにもたれかかったまま30分ほど静かに目をつぶっていた晶が、おもむろに顔を上げたかと思うと、ぽつりと呟く。目線は少しの間を空けて隣に座る、フィガロの膝の辺りを見つめるばかりだ。
「少しはマシになった?」
なるべく優しい声音を意識して話しかける。
「……あなたの言う通りでした」
「なにが?」
「いつかあなたに言われた通り、俺は押しに弱くて、ぼんやりしていて、……流されやすい、ダメな人間です」
フィガロは可笑し気に首を傾げた。
「そんなこと言ったっけ」
「言いました。何年か前に。…………俺、そんなことないって思っていたけど、俺が思うよりも、フィガロのほうが俺のことよく分かっているから」
空を見つめたまま、晶が小さく鼻をすする。
「こうやって、ちょっとずつ失敗して、ちょっとずつほら、やっぱりって思われて、いつかどこかの時点で、俺はあなたに見捨てられるんだろうなあって思ったら」
雲行きが怪しくなってきた。
「……自分が情けなくて、悲しくなって、どんどん気分が悪くなってしまって。たくさん吐いてしまったし、クロエにまで迷惑かけて」
「きみは少しもダメな人間なんかじゃないし、俺はきみにがっかりもしていないよ」
「うそですよ」
わななく唇が、思いのほか強く否定の言葉を紡いだ。晶の短い下睫毛の堰を越えて、涙がぽたぽた太腿に垂れ落ちる。
「絶対にうそです」
瞼を伏せても涙は止まらなかった。
「……わかった、きみは失敗したことを責めれたいんだ。そうだろう。何より自分が一番駄目だと感じている時に、他人から貰う慰めの言葉ほど信じられないものはないから。…………いいよ、おいで。俺が叱ってあげる。きみの旦那さんだからね」
フィガロはクロエとの約束を瞬時に捨て去り、両腕を広げて見せた。顔を上げた晶のべしょべしょに濡れて光る睫毛と黒い瞳がフィガロを捉える。
「おいで」
もう一度、甘やかすような声で誘う。フィガロから動くことはせず、あくまで自分で手を伸ばしてくるのを待った。晶は数度瞬きを繰り返して、躊躇いつつもおずおずと手を向ける。ソファの上でへたり込んだ姿勢から、膝立ちで近寄ろうとしてつんのめった。お約束のように腕の中へ飛び込んできた青年の身体を危なげなく抱きとめて、フィガロは声を上げて笑う。 「きみって期待を裏切らない」
「…………面白味がない男って意味ですか?」
顔は見えなかったが、涙に濡れた声だけでしょげているのが分かる。
「可愛げのある人って意味。さて、俺の目の届かない外でお酒を飲んで失敗した、悪い子の晶」
「やっぱり、覚えてるんじゃないですか」
「黙って。……少しだけなら大丈夫だって、本当に思ったのかい?周りの空気に乗せられたのかな。それとも投げやりな気持ちで? にせよ軽率なことをしたね。悪い人間の言葉にも耳を貸して、本当に流されやすいダメな子だ」
すんすんと鼻をすする音が聞こえる。
「きみはとても危ない目にあったんだよ。アルコールは立派な毒物だ。扱いを間違えれば簡単に死ぬ。そうじゃなくたって、老若男女問わず酔い潰れて抵抗出来ない相手に乱暴したり、物を盗んだり、無体を働くようなどうしようも無い連中だって居る。ねえきみ、自分の身にどういうことが起きたのか、ちゃんと分かった?」
いつにも増してしおらしい晶の後頭部を撫でながら、つとめて優しい声で、しかし加減はせずに淡々と言葉を並べる。フィガロの肩口に押し付けられた顔から、くぐもった返事が返ってきた。
「はい……ごめんなさい」
「心配だから言ってるんだよ。きみは俺の大事な家族だから」
脇腹辺りに添えられていた手が、遠慮がちに背中に回された。
「それから」
まだあるのかと晶が身構える。
「嫌がる相手に強引に勧めたり飲ませたり、そういうことをする連中はきみよりもっともっと駄目で、何百倍も悪い人間だよ。というか法に触れる。きみがちゃんと断ったのなら尚更」
「……話してる内に押し切られてしまって。でも、流されたのは俺です」
「晶」
穏やかだが制すような口調で呼ばれて、びくりと体を揺らした。
「こ、断ったら、ちょっとしつこくて……色々口実を探したんですけど、聞いて貰えなくて。……酔ってる人って加減が出来ないじゃないですか、向こうは複数人居たから俺も少し怖くなっちゃって、それで、その」
「なら、きみは被害者だ。忘れないで。そういうことをする連中は、自分より弱そうな相手しか選ばない卑怯者だから。きみに酷いことをしようとする人間たちにまで、心を砕いてやる必要はない。きみに落ち度は無いよ。…………もう泣かないで」
掛けた言葉と相反するように、鼻をすする音がやむことはなかった。心なしかしなびてしまっている髪に口元を寄せて、抱え込むように抱きしめると、背中に回る腕もほんの少し強くなる。反応の物珍しさに気分が良くなったが、同時に幾らか面白くなさもある。照れずにフィガロの背に縋る腕には、未だ尾を引く酒の匂いと、付けられたばかりの切り傷を指でなぞるような気配があった。原因が自分でないことが、名前も知らない連中への不快さへと、腹の底で密やかに変換されていく。

「どう?まだ寒い?」
先ほどよりは身体を離して、お互いの顔が見える距離で頬に手を添えて覗き込む。
「少しだけ……でも、だいぶマシになりました」
「よかった。胃の中の物、全部吐いたのなら、同じぐらい水も飲んだ方がいい。体の中の水分が減っているから。アルコールを分解するのにも水が要るんだよ。それに涙は血液中の――」
慣れた口ぶりに、晶は何かを思い出すように微笑んで、何故かすぐに笑みを引っ込めた。
「水は飲んでます。あの、俺……においませんか?」
言われてみるとアルコールと、汗と、それから知らない香水のいくつか混じったような香りはしたが、吐瀉物の独特な臭いやなんかは無かった。手洗い場で上手く吐いたのか、幸運にも服には付いていないらしい。
「どうかな。酒のにおいはするけど……シャワーを浴びたくても、もう少しだけ我慢して。危ないからね」
返事の代わりに頷いて、そのままぼんやりとした様子で、温くなった水に口を付ける。酒と涙で赤く腫れた目元を見つめていると、ふいに目が合った。
「…………ねえ、さっきのさ」
「はい」
「面白みの無い、ってやつ。もしかして、誰かにそう言われた?」
フィガロの言葉に、眠そうだった晶の目が僅かに見開かれる。そして恐らくほぼ無意識に、口元を手で隠した。
「どうして」
「きみらしくなかったから。そんな自己否定的な言葉、最近誰かに言われたから印象に残っていて、つい口から出てしまった、って感じがする。違う?」
晶は何も答えなかったが、答えないのが答えになっていた。だとするならば、先ほどの妙に後ろ向きな吐露にも納得がいく。フィガロから見て晶は普段、謙虚ではあれど卑下傾向のある人間ではなかった。あれが例え、元々本人の中にあった感情にしろ、静かに飼い馴らしていたものを表層に浮き上がらせるきっかけを作った誰かが居るわけだ。
「俺に言ってないことがまだない?今日、他にも何か言われたり、されたりした?」
「大丈夫です……」
どこからどう見ても嘘だったが、本人が言いたくないのなら意図を汲む他ない。
「……まあ、きみがそう言うなら、そういうことにしといたげるよ。けど、話したくなったらちゃんと言って。俺たちってそのために一緒にいるんだよ。そうだったでしょう?」
フィガロの言葉にはうんともいいえとも言わず、暫く無言で膝を見つめていた晶だった。しかし熟考のち、躊躇いながら口を開く。
「最初は本当に、ちょっと絡まれただけだったんです。向こうは三人で、凄く酔っていたから、まともに相手をするのもな、というぐらい」
晶の両手の指先が、組まれて解かれ、また組まれた。どう話すべきか迷っているらしかった。
「でも、飲んでしまって、頭がぼーっとしている間に会話に乗せられて。その、流れで」
「うん」
「フィガロのことを持ち出してしまって、……だからつまり、結婚してるってことを。そのことで、少し」
ああ、と思った。口からそのまま音が漏れた。
「……俺のせいか、ごめんね」
「違うんです、違うんですよ」
咄嗟にフィガロの服の裾を掴んだ晶の手に力が込められた。掴まれたフィガロは、これは伸びてしまうだろうな、と頭の片隅で考える。
「俺酔っていて、色々と言いたかったのに言葉が出てこなくて、なにも言えなくて……情けないですね」
具体的に何を言われたのかまで、晶は口にしなかったが、幾通りか思い浮かぶものはあった。興味のない相手の、酔っ払いの戯言でも、隠し持ったヒビに突き刺さることはままある。フィガロ自身は邪推されることにも、好奇や猜疑の目にさらされることやそれをあしらうことにも慣れているが、きっと素面の時でも晶は咄嗟に上手く言い返せない。元々人と争ったり、言い負かすようなことが得意ではない質だ。もやもやと行き場のない澱をいつも無意識の内に溜めこんで、疲れ果て、ぽたぽたと零れたところでやっとこうして目に見える。
「俺とあなたがたくさん考えて選んだ大事なものを、無遠慮な他人の足元に置いてしまったのは俺だから。そういう隙を自分から差し出したんだと思うと、なんだか、自分のことが心底嫌になっちゃいました」
駄目ですね、と眉を下げて笑って見せる晶の、頬の上の乾きかけた涙の跡に触れた。
「この関係を、都合よく利用してもいいと最初に言ったのは俺だよ」
「でも、大事にしたいのに……俺、どこかで投げやりになってしまっていたのかも。雑に扱っていいつもりなんか、少しもなかったのに」
喋りながら、眼を覆う涙の膜が分厚くなっていく。
「大事にしたかった筈なのにな」
折角止まった涙が、懲りずに瞼から溢れて落ち、フィガロの親指を濡らした。
「……気弱になるのは疲れているのと、アルコールのせいだよ。きみはよくやってる」
溢れて伝う線を撫でるように拭って、拭ってはまた伝うので、また拭った。
「きみのそういうところが心配ではあるし、指摘はしたかもしれないけど、俺はそこを気に入ってもいるから。嫌な目に遭っていたら助けてあげたいとも思う。でもいつでもそばに居られるわけじゃないし、きみもそれは望まないだろう。難しく考えすぎないで。もしも必要だと感じて、上手く使えると判断したなら、俺のこと盾にしたっていいんだよ」
唇をぎゅっと結んで、耳を傾ける晶の緊張を和らげるように、いたずらっぽく笑いかける。
「それとも、俺といるのに飽きちゃった?」
「まさか……!そんな訳ない、あり得ないです!」
冗談めかして引いて見せれば必ず否定して、子犬がするように、一生懸命に擦り寄ってくる。遠慮がちに裾を握る手指や下がりきった眉が、濡れる枝葉に似たまつ毛が、必死に好きだと訴えている。この青年のこういうところがフィガロにとってはなんとも都合が良く、また好ましかった。
「じゃあ何も心配は要らないね。……自分を責めすぎないで。きみの優しいところ、俺はよく知っているつもりだよ。泣かないで、笑って晶」
少ししっとりした前髪をかき上げ、顔を近づければ嫌味でない程度に身を引く。いつも通りの反応だった。今でこそ、フィガロがどれだけ試すような真似をしても、あの恋しげな視線が追いかけてくることへ自惚れにも似た自信を持っているが、やはりどうにもこれだけは決して許そうとしない。盗み見るぼんやりとした目と目が合う機会は減り、手を繋ぐこと腕を組むことに慣れた今でもなお、ふとした時に絡めた指の股を撫で、爪を撫で、隠されたものを誘うように手首に触れれば静かに逃げていった。いっそ無性愛者か、性嫌悪の類だと言われた方がよほど納得がいく。しかしそれとて確かめる気も起きなかった。臆病からと言える時期はとうに過ぎ、今はただ曖昧に戯れる穏やかさを愛していたから。自分と彼とに必要のない交わりならば要らないから、この生活をただ大事にしたい、そう願っていた。
薄く滑らかな繭で包んで、表層を撫ぜるように遊ぶ。この半年と数か月間、目に見えないやわらかい何かを確かめ合うような日々だった。それの名前が恋でも愛でも、それ以外の何かであっても構わない。きっと離れていかない。彼はもう離れていかない。
「大丈夫、悪い人間たちにはきっと今に罰が下るさ」
「俺にも?」
「きみへの罰は、…………まあまた追々。クロエにもお詫びをしなくちゃね」
おどけながら、左手で晶の耳を撫ぜ、首の後ろを捕まえると額を寄せて、落ち着いたらシャワーを浴びておいでと告げる。くすぐったがりつつも、赤く腫れぼったい下まぶたが慣れた風になだらかな弧を描く。目を合わせたまま、襟足を慈しむように暫く撫でれば、額からじわじわと熱が伝わった。やがてぬくい手に捕えられ、左手はやんわり外される。フィガロにされるがまま、猫のようにぐにゃぐにゃしていたほんの一時間前までの大人しさを、少しだけ惜しみながら顔を離す。酔いはすっかり醒めたと見てとれた。

2020.12.19