つみきのお城

寝ている人間にキスをしたことがない。意味が無いから。かつて平然と述べる、フィガロはそういう人だった。

「ほら、こっちを向いて、笑って」
「はい。チーズですか?あれ、ピースだっけ」
「はは、酔ってるね」
お世辞にも写りは良くないスマホカメラの画面越しにへにょへにょ笑う晶は、ほんのわずかのアルコールでのぼせた締まりのない顔で、危なっかしくフレームの内に収まったり、はみ出たりしていた。顔の半分を覆い隠す安っぽいおもちゃの眼鏡は、カラフルな文字で「Happy Birthday」とデコレーションされている。それが彼の小さい鼻の上で、ズレ落ちかけたまま辛うじて眼鏡としての体裁を保つさまを、スマホを向ける男は可笑しそうに見詰めた。この場を切り取ればまるで同居人、晶の祝い事であるかのようだったが、時計の示す時刻は午前0時15分。日付けは生まれたての6月5日。スマホの画面と、その向こうの本物とを交互に見比べては、楽しげに指示を出す男、フィガロ・ガルシアの誕生日にあたる。
「ちょっとフィガロ、これ動画じゃ……もう、やめて、ダメですってば」
「残念、バレた」
「誰かに送ったりしないでくださいよ、恥ずかしいですから」
「しないしない、俺が一人で楽しむ用」
気付いた晶にレンズ部分を両手で隠され、ブラックアウトの形で撮影を終えたが、動画データは素早い操作でウェブクラウドに保存された。
「明日は朝からミチル達と準備してくれるんだろ?きみはそろそろ寝た方がいいね」
「はい……あの、フィガロ」
「うん?」
「誕生日おめでとうございます」
「うん。どうもありがとう」
このやり取りは、日付が変わってから既に三回目だった。一度目は元気に、二度目は噛み締めるように、そして三度目の晶は、何故だか申し訳なさそうに眉を下げている。傍らのワイングラスは二時間ほど前、ささやかな乾杯の音頭から、ほぼそのまま残っていた。一方フィガロは自分の口を付けている物が一体何杯目であったか、途中から数えるのをやめている。
「ごめんなさい……結局、あんまり飲めなくて、おれ」
「何言ってるの。酒は得意じゃないきみが、俺のために付き合おうとしてくれたんだ。……嬉しいよ、心から。体質は変えられないんだから、無理はいけない」
「うう、でも……数口でこんな、こんな……せめて一杯は」
「いいからいいから。はいドクターストップ」
「あう」
グラスを取り上げられた晶が、情けない声を上げて、そのままゆっくり机に突っ伏した。見かけよりも大分回っているらしかった。さっきから眠たいのを我慢している節がある。日付が変わる前は金曜日だ。昼間は普通に仕事をしていたのだから、疲れているのは当然だった。
日本人が遺伝的にアルコールの摂取に向かない者が多いことはフィガロも理解していたが、中でも晶は弱い方らしい。アレルギーがあるほどでは無いにしろ、何度目かの冬、ホットワインを作る傍らで、匂いだけで酔ってしまいそうだと笑っていたのを覚えている。加えて酒類独特の苦味や辛さも特別好む訳じゃない。家でも外でも、自分から飲もうとすることなど、フィガロの知る限りは一度も無い。そんな事情を把握している身で飲ませるのもどうかと思いはしたが、珍しく飲むと言って聞かなかった。照明の光を取り込んできらきら光る瞳が、子供みたいに真っ直ぐ己だけ写して、なにかとても大事な話のように熱心に説得されたので、じゃあまあ、一杯だけ付き合って、ということになったのだ。
「…………ずっと、いいなあって思っていたんです」
囁くほどの声が、突っ伏した頭と、机と腕の隙間から漏れ聞こえる。
「……なにを?」
つられるように囁き声で返した。
「リケが成人して、ミチルが成人して、……いよいよ俺だけになってしまって……フィガロの周りの人たちは、みんな揃ってお酒が強くて」
「ミチルとホワイト様は、そこまでじゃないと思うけど」
脳裏で、甘党の育て親がほほほと笑う。
「でも、一緒に飲めるじゃないですか」
なんとなく、言わんとしていることを察した。
「同じものを食べて、同じものを飲んで、一緒に時間を過ごすのって、俺にはとても大事なことのように思えて。いや、出来なくても、別に悪いわけじゃないけど……なんと言うか、あなたが疲れた時とか、少しだけ愚痴を言いたい時とか、楽しいことがあった日なんかに、今日は一杯付き合ってよって言ってもらえるのが……言ってもらえる人たちを、いいなあって思っていました。ずっと」
くぐもった喋りに耳をすませて拾うと、要はいつまでも自分だけが仲間に入れないようで、寂しかったということなのだろうが。しかし恐らく一言で済ませられない複雑な感情が、晶の中には小さく小さく降り積もっている。そのほんの些細な段差に、フィガロも覚えのない身ではなかった。
「今日はあなたの誕生日で、明日はみんなでパーティをやるけど、今晩は外に出ないで、なんと俺といてくれるので……一番におめでとうを言えるので、だから。だから……」
もごもごとしていて最後はよく聞こえなかった。思えば二人きりの内緒話をする時もほとんど聞き手で終わることの多い晶が、進んでこういった胸中を吐露してくることは多くない。酔っているのだとフィガロは理解した。酔うとこうなるということを。もしかすると、朝にはこの子は忘れてしまうかもしれないけれど、とにかく今は最後まで聞いてやろうとじっと続きを待つ。しかしいつまでも次の言葉は聞こえてこなかった。
「晶?」
顔を覗き込むように近付けると、すうすう寝息をたてている。
「寝落ちかー……」
諦めて一つため息をつく。寝た子を起こさないように、カウンターテーブルに広げられた皿や空のボトルを一通り食洗機へ放り込むと、スイッチは押さず、新しいグラスを戸棚から取り出し水を注いで席に戻る。真下を向いていた晶の頭は、首が辛かったのか、あるいは寝落ちて脱力したせいか、先程よりも顔の見える角度に落ち着いていた。眩しくないだろうかと、隅に投げ置かれていたリモコンで灯りを落とし、代わりにキッチンの間接照明をつける。白熱球の色に似せた淡い橙の光が、静かな夜の空気に寄り添い眠気を誘った。

随分いじらしい告白をされたなと思う。顔にかかる鬱陶しげな前髪を指でそっと払い除けてやると、あどけない寝顔がよく見えた。フィガロが冗談のつもりで3年目の誕生日に買って来た眼鏡を、晶は捨てずに保管して、誰かの祝いの度持ち出してくる。彼のそういう、ちょっとした行動から滲む親愛と律義さがフィガロは好きだった。件の眼鏡は今や鼻までずり落ちて、辛うじて頬を挟んでいるに過ぎない。残り数口のワインをチビチビ舐めながら、見られていることなど微塵も意識しない、大人しく瞼の閉じられた顔を眺める。
取り立てて褒めるところも、貶すところも無く、強いて言うなら印象の薄さが役に立つことのありそうなこの顔が、世の中の大勢の他人よりも特別な気がしたのはいつが最初だったろう。よく見ると眉毛や耳の形が良いし、酷く地味な色の髪や瞳を、春の日の下に透けて光るのが綺麗だと感じたのはいつが最初だったろう。笑った顔が悪くないと、無警戒に寝入る姿が可愛いと思えたのはいつが最初だっただろうか。

寝ても覚めても無害な男だった。真木晶という人間は。生まれ持った雰囲気がそうであるのに加えて、本人もまた意識的に、誰に対してもそうあろうとしているのが、言葉の端々から感じられることがある。それが心を持つ人間には土台無理であるのはフィガロがよく理解していたし、無理のしわ寄せは必ずどこかで晶に降り掛かる。それでも臆病で居ることと引き換えに孤独を抱え続ける方を選ぶこの人間の弱さを、愚かだと笑えたらよかった。笑ってやれたらよかったと、何度か思った。
誰の印象にも深く残らない存在感で、柔らかな毛布のように寄り添って、必要が無くなればいつの間にか居なくなっている。寝ても覚めても無害な男だった。愚かだと笑ってやれたら、自分の元からも、ほんの少しの躊躇いと共に立ち去ることが出来たのだろうか。
ずるい事をしている自覚はあった。似たような傷をチラチラと見せ付けて、手は握らないまま縛り付けるように、試すように、戯れるように甘えるフィガロを、傷付けることも抱き締めることも出来ないまま受け入れ続ける晶の、可哀想なほど都合のいい性分。きっとこうなると確かに分かっていたし、どこかで期待もしていた。そうして崩壊しない瀬戸際を見極めながら、終わるまで踊り続ける、綱渡りのような関係に寄りかかる己のずるさを、5年をかけて実感してもいた。互いにとって、こんなに丁度いい相手はそう居ない。晶だって思っているに違いないのだ。この居心地の良いぬるま湯に、波風立てることなく、出来るだけ長く浸っていたいと、そう。

相変わらず起きる気配の無い寝顔を肴に、残りの数滴を胃におさめてしまうと、後はもう目の前の青年を起こすか、ベッドに運んでやる以外にする事がなくなってしまった。フィガロはおもむろに、晶の顔に引っかかっている、眠るにはいささか窮屈そうな眼鏡に手をかけた。刺激を与えないよう慎重に、静かに抜き取る。遮る物が何も無い、無防備な寝顔が見えた。もっとも晶は起きている時でも時々、他者に対して迂闊なところがあるのだが。
「起きて。……眠るならベッドに」
返答はなかった。丸まった背中に手を添えてみても、起きる様子がない。背骨から肩、首筋へと指を滑らせる。ひきつれのように布が軽く持ち上がり、部屋着の裾から肌色が一瞬覗いた。慈しむように、人差し指の背で頬を柔く撫でる。
「あきら」
変わらず、返事は無い。

自分達は、互いの胸の内にある穴を共有するためここに居る。埋めることは出来ずとも、良き隣人になれる。優しく利用しあえばいいと、フィガロはそう思っていた。
わずかのズレに気が付いたのはいつだったか。ある部分において、二人は利害の一致を了解し合っている。そこにほんの少しの認識違いがあるのではないかと思い始めたのはここ1、2年のことだった。例えばふとした瞬間、家で読書をしている時や、退屈な映画を見るともなく眺めている時、なんとはなしに視線を上げると目が合うことがある。自分を見ていたのだということは理解出来るが、それが何を意味するのかフィガロには分からなかった。より正確に言うと、晶からの憧憬のような好意は感じるが、「同性の親しい友人」として以上のあらゆる線を決して越えてこようとはしないため、よく分からないでいる。フィガロ自身に恋慕の体験が無いので比較はしようがないし、今まで見知ったあらゆるサンプルにも当てはまらないため、情けないことにそうだと断言出来るほどの自信が無かった。違うと言われても納得はする。そんな靄がかった微妙な違和。
思い込みとは強い呪いのようなもので、考えてみれば晶のそういった奇妙な癖は、出会った頃から変わっていない気もする。だから一昨年の12月、就職と大学卒業を機に、晶と家を出る出ないで多少もめた後、結局留まる方向に落ち着いたことを報告した時のチレッタの形相を見るまでは、微塵も考えたことはなかった。チレッタから暴露された話は半ば事故のようなものだったが、不思議と納得がいくような、疑わしいような内容で、今思うとフィガロ自身でその発想に至らなかったというのも妙な話だ。しかしあわや喧嘩別れかという事態が収まり、今は凪の日々を楽しんでいるところへ、わざわざ小石を投じて余計な波風立てるような真似をする気には到底なれない。下手を打てば今度こそ終わりになる。ひょんなことから始まったこのごっこ遊びが、いつかは崩れる積み木の城だとしても、それは今じゃなくていい。

一緒にお酒が飲みたかったんだって。一番におめでとうを言えるのが楽しみだったんだって。

随分いじらしい告白をされた。二人を知らない誰か、もしくは二人をよく知る誰かが聞けば、可愛らしい愛の言葉だと理解しただろう。
晶から好かれている自信は最初からあった。内訳がなんであれ。フィガロとしても悪い気はしないが、この居心地のいいぬるま湯を維持するため必要だと晶が判断したのなら、隠されている物をわざわざ暴いて傷付けることはしなくていい。内訳がなんであれ、互いをそれなりに、大事に思っていることに変わりはないのだから。停滞の代償として、この先も知り得えない真相に想い馳せるのは無駄な労だ。

「ねえ、起きて。こんなところで寝たら風邪をひくよ」
薄く開いた下唇の真ん中に指先を置いて、ふにふに弄ぶ。
起きている晶ならば、こういう戯れは嫌がったろう。きっと照れて、嫌がった。それか、理由が分からず困惑しつつも、受け入れるかもしれない。決定的な一線を越えない限り、晶は基本、フィガロのすることにはされるがままで耐える。多少の質疑や口答えはするが、限界までは大人しくしていた。ある面では草食動物のように臆病なのに、信頼されているのか、ぼんやりしているだけか、腕を掴まれ引き倒されるまで、己が侵害されていることの意味に気付かない愚かさには時々、苦言を呈したくなるものがある。
そんなにも従順で、無警戒で、果たしてこのままキスしたらどんな顔するのだろうか。裏切られたような、傷付いたような顔が目に浮かぶ。好奇心は湧くが、それで全てが終わりになる、決して踏み越えてはいけない線だ。たったそれだけで。たったそれだけを、二人は恐れていた。あるいはそれすら逃げずに手を取ってくれたら。もしかすると。起きている晶なら。起きている晶だったら……。もやもやとわだかまる思考を遮るように、眠る男がくすぐったそうに身じろぎをした。半開きの唇からは、ごく小さい、うめきともため息ともつかない声が漏れる。一人っきりの静寂に終わりを告げる、ゆるやかな覚醒の気配を認めるとフィガロは、何を思ったかそのままそこ、口元へ。ゆるやかに顔を落として、触れた。

子供の頃、ホワイトと二人テレビドラマを見ていた時のことが、走馬燈のように過ぎる。行為の意義はコミュニケーションの筈なのに、意識の無い相手にするキスは、死体とするのとどう違うのかと、そんなことを言っては育て親にため息つかれていた、可愛げの無い子供時代の己に教えてやりたい。自分にどんな仕打ちを受けても逃げ出さずに向き合おうとする、純朴な青年の信頼を踏み躙る罪悪感と、後ろ暗い快、甘くて醜いひとりよがりの疼痛の味。

「…………あれ。フィガロ?すみません俺、寝てしまったんですね」
柔らかい光に数度のまばたきで視界を慣らしながら、晶がだるそうに身を起こした。
「うん。きみが起きないから、寝顔を観察してた」
「えっ、お、起こしてくださいよ……!」
気恥ずかしげに手の甲で目元を隠す。晶の乾燥気味でかさついた唇が、打って変わって良く動くのを、静かに目で追った。
「いやあ、教訓にしてもらおうかなと思って。きみが、俺の見ていないところでお酒を飲まされるような機会がもしあったらさ」
「外では飲みませんって」
フィガロは微笑んで、水の入ったグラスを手渡す。
「きみの職場はきっちりしている所だし、大丈夫とは思うけどね、気をつけてよ。世の中にはその頭じゃ想像もつかないようなことを考える悪い大人が、たくさん居るんだから」
俺とか、とはもちろん言わない。
「ちゃんと断れますよ俺。フィガロが思っているよりかは、多分もう少し、しっかりしてます」
「きみは自分で思っているよりかは、もう少し押しに弱いし、どんくさいし、情に流されやすいよ。それを自覚しておかなきゃ、いざって時に……ああほら、水零す」
「え、わ」
言っている傍から部屋着の首元を濡らした。
「うう、冷たい……」
じわじわ胸元に染み入る不快な感触に、晶が眉を下げた。
「それで寝たら気持ち悪いだろう。着替え、持ってくるよ」
「いえ、あの、自分で」
言いながら席を立とうとして、着地に失敗してよろめいた。カウンターに合わせたバースツールは、フィガロの足の長さで丁度いい。つまり晶には少し高い。
「いいから、いい子で待っていて。まだ酔いが残ってるだろ」
フィガロの指摘通り、足を踏み出せば身体が斜めに倒れていこうとする。これがアルコールの影響かと、晶は目を白黒させた。
「だけど、あの、渡したい物もあるんです。その……プレゼントが」
「きみが選んでくれたものなら、俺はなんだって嬉しいよ。だけど、今日はもう時間も遅いし、明日にしよう」
「でも」
珍しく食い下がる。
「じゃあ、明日の朝一番に、プレゼントを持って俺を起こしに来てよ。小さい頃のクリスマスの朝みたいに、サンタクロースになって。きみがママだよ。俺を喜ばせて」
そう告げると、晶は一瞬面食らった後、表情を和らげた。明日の朝を想って、瞳がちらりと光る。納得したようだった。
「……それに」
「それに?」
「今夜はもう、貰ったから」
丸い目をぱちぱち瞬かせて、不思議そうに小首を傾げる青年の疑問には答えず、フィガロは部屋を出た。晶からは見えないその顔に、わずかの怯えと興奮の色を浮かべて。時刻は午前0時45分。誕生日はまだ始まったばかりだ。

穏やかな祝いの夜、積み木のお城にくさびを打つ。静かに小さくヒビを入れるように。二度と決して崩れるなと、祈るように。

2020.12.10