「結婚した!?」
今や人種と文化の坩堝と化した東京都心の真ん中、公共交通の要所である某駅の東口から少し歩いた先にある、馴染みの店内に響き渡った旧友の一声に、香りの良い紅茶のカップに口をつけようとしていた晶が思わず身をすくめた。
半年ほど前、関東近郊で雪が解けきらない、まだ充分に寒い時期だった。晶の口から事と次第を告げた相手の実に8割が、今目の前に座る友人と全く同じ反応を示したので、流石に慣れた。とは言え今回は少し趣きが違う。半年間、指輪を付けたことの無いままでいる薬指をさすりながら、申し訳なさそうに口を挟む。
「すみません、完全に言ったつもりでいて……」
「聞いてない、聞いてない、聞いてないよ!」
「俺がぼーっとしてたことは謝りますから。クロエ、声が大きい」
ちらりとうかがい見る常連客や、振り向いたマスターの視線に気付き、恥ずかしそうに視線を下げた旧友、クロエは、幾分か声量を落として、それでも店内を流れるセンスのいいジャズに負けない程度、語気を強めに続ける。
「いつの話?俺がフランスへ帰ってる間に?こんな言い方したくないけど、心配だから言うね。騙されてるんじゃないよね?本当に大丈夫なの?フィガロさんて、あのフィガロさんなんだよね?」
「俺が長らく間借りしてた、あのフィガロですよ。大丈夫です」
「酔って帰ってきて、女の人と間違えて寝込みを襲ったっていう、あの?」
「……未遂だし、たった一回だから」
「二回だよ」
沈黙した。
「別件もいくつかあるでしょう……俺、晶から聞かされた時、すっごく傷付いたから覚えてる」
「ごめんなさい」
実のところ、同居を始めた最初の数年、つまり在学当時は似たような事件が幾度も起きたため、晶をしてディティールは一々覚えていない。しかし当人よりもなお悲しそうな顔をするクロエに、つい罪悪感に駆られて謝ってしまったが、立場で言えば彼も被害者だった。
「ううん、話をしてくれないよりはずっといいよ。こんな大事なことを、俺だけ知らされてないなんて、仲良しと思ってたのは実は俺だけなのかなって、考えちゃうから……」
振り出しに戻る。
「そんな訳ない、誤解です!第一俺、春にラスティカと会った時、話した筈ですよ、伝わっているものとばかり」
「聞いてないよラスティカ!」
再度、悲しげな悲鳴が上がった。
「クロエ、コンテストの準備で凄く忙しかったでしょう。俺には縁遠いけど、ああいうプロの世界の第一線に立つのって、ずっと張り詰めていたり、やたらナイーブになりませんか?邪魔したくなかったんです。電話しようにも時差もあるし、タイミングが分からなくて……気付いたらこんな時期に」
「気持ちは嬉しいけど……じゃあ俺は、大事な友達のお祝いごとを何も知らずに、半年間仕事ばかりしてたってわけなの」
しょぼしょぼとした様子のクロエは、冷めてしまった紅茶に口をつける。つけようとしたところで、ハッとした顔で口元に手をやった。
「結婚式……結婚式!晶、式は!?」
「安心してください、式はしてませんし、しません。……なんて言うか、その、そういうのじゃないから、俺たちって、つまり」
「それって……」
「結婚と言うより籍を入れた、が正確なのかも。これからも長く、仲良く一緒に暮らしましょうねって、そういう約束みたいな」
「恋愛結婚じゃないってこと?」
「端的に言うと、そうです」
何か言おうとしたらしい口が、半端に開かれたまま、アメジスト色した大きくて丸い眼が、更にまあるく見開かれたかと思うと、合点がいったように黙る。コーカソイド独特の赤味を抱く白い指が繊細にティースプーンを摘んで、冷めた紅茶を物言いたげにくるくるとかき混ぜるのを、心許なく晶は眺めた。
「あの、きっかけは色々あったんですけど、でも、何年も続けた生活の延長線上で、流れるように収まってしまったので……本当は、これがどういうことなのか、俺もちゃんとは分かっていないのかも」
結婚を提案された時、確かに嬉しかった。理由は利害の一致だとしても、今までだって、二人の間にある細かな共有の何もかもが、突き詰めて言えばそうだったのだから。晶からしてみても、それは別段悪い意味を持たなかった。むしろ、自分というたった一人だけに与えられる居場所を、約束してくれたようで嬉しかった。夢みたいだった。例え、紙一枚で失われる約束であっても。
店内に流れるジャズが、いつの間にか眠気を誘うクラシックに変わっていたが、二人はちっとも眠たくならない。目力のあるクロエの視線が、己の前頭葉あたりに注がれている気配を感じながらも、対面でくるくる円を描き続ける友の手元を、じっと見つめたまま晶は居た。
「いいこともたくさんあるんですよ」
まるで先に「悪いこと」を述べたかのように、言い訳地味た言葉を無意識に選んでしまった。クロエの物言いたげな視線には理由がある。そこに触れたくない一心で、普段聞き手を務めることの多い口がよく回った。
「色々な手続きが楽になったし……誘いを断れるし、お互い親戚はほとんどいないけれど、フィガロの話はいつだって知識に溢れていて面白いから、身内受けもいいんですよ。それに、いざという時後のことを任せられる人が居ると思うと安心します……お互いの事情に理解もあるし、取り決めもちゃんとしました。その癖居心地は良いんです。現に、俺たちの関係はあの頃から何一つ変わっていませんから」
「でもまだ好きなんでしょう」
優しい声音に乗った端的な指摘が、晶の胸に突き刺さる。気のいいクロエが、友の身を置く状況を案じる唯一の理由がそれだった。契約結婚なんて言葉が随分昔に流行って久しい。他人の人生の在り方に口出しするのがナンセンスな世の中で、考えることと言えばもはや、当人の納得の有無以外に無い。
今一度確かめるように、あきら、と名前を呼んだ。
「本当に大丈夫なの?」
「…………大丈夫です」
結婚を提案された時、確かに嬉しかった。人生のあらゆるシーンで、何かの折に、自分を名指してくれるような誰か。そんな人間に出会いたいような、終ぞ出会えないような、諦めのような寂しさを、ずっと抱えて生きてきたから。
「結婚しようよ、って言われた時、ずっとここに居ていいよって許されたみたいで、本当に嬉しかったんです」
どんなに近くに居ても、一生手が届かないと感じていた人が、一つしかない椅子に晶を名指して手招いた。いつでも席を立てるように、手は掴まないまま逃げ道を用意する癖は、互いの弱さをよく表しはしたが、選択肢なんて無いのと同じだと思った。身の内にそれだけの熱があることを、その時初めて理解した。
「だからいいんです、もうそれだけでいいんです。十分すぎて、幸せなんですよ、俺」
黙って話を聞いていたクロエが、スプーンをソーサーに置いて、ゆっくり口を開く。
「……なんだかんだ言ってこういうことはさ、俺には口出す権利って、結局は無いから」
「クロエ……」
「幸せならいいんだ、本当だよ」
ようやっと目を合わせた。
「俺は、ちゃんと幸せです。ありがとうクロエ、心配かけてごめんなさい。……俺も、クロエが幸せでいてくれたら、凄く嬉しいです」
笑おうとしたクロエの頬が、ほんの少しだけ、すりガラスから差し込む西日の眩しさに耐えるように力む。それが寂しさの顔であるということに気が付いたのは、帰りの電車を待つ駅のホームに、一人で立った時だった。
「遅くなったけど、晶、結婚おめでとう……で、いいんだよね?」
「はい。クロエの口から、地獄に落ちろ、なんて言われたら、それはそれで楽しい気もしますけど」
クロエは今度こそ、声を上げて笑った。
「おめでとう。幸せでいてね。結婚式、もしも気が変わったらいつでも言ってよ。ちゃんとしたのじゃなくても、落ち着いた頃に、ちょっとしたパーティでもいいからさ。友達の結婚式で俺の作った服を着てもらうのって、実は夢なんだ」
「わかりました、覚えておきます」
「フィガロさん。今度は俺にも会わせてね」
その言葉の意味を正しく理解した後、気のいい友、そして高確率で隣に居る彼の幼馴染と、相性の未知数な配偶者のにこやかな顔が、衝突しては消え、衝突しては消える。まだ何も起きていない筈なのに、胃がキリキリと痛んだ気すらした。数秒の間を置いて、弱々しく絞り出した答えは保留。
「考えておきますね……」
クロエがまた笑った。今度は腹を抱えて。
2020.12.05