架空日記(衛星通信)

今日、冷蔵庫から例のメモが消えた。実を言うと、本当に今日消えたのか、昨日にはなくなっていたのか、あるいはその前から既に無かったか、自信がない。ここ数週間は恐ろしく忙しくて、精一杯の食事と睡眠以外、家に居る間の記憶がおぼろげだった。紙切れの足跡を追って、キッチンの床やごみ箱の中を覗いてみる気もおきない。どうせ捨てたのはモモだ。それも、昨日か一昨日の内に我が家へ顔を出したから多分その筈という、予測の域を出ない。ただまっさらな冷蔵庫の表面を見て、少し残念に思っただけ。モモは時々よく分からないことにこだわるし、本人に訊ねてみないことには真相は分からないが、それはそれ、曖昧なことをそのままにしておける仲というのも、素敵なことのように思う訳である。まだもう少しの間はこの忙しさが続く。モモとゆっくり話をしたり、何にもない時間を過ごせるようになるまでに、せっかくだから、新しい何かを仕掛けてやろう。事務所の隅の丸椅子に置き忘れて数日、取りに来る様子がないと言う上着のポケットにでもメモを仕込んで、素知らぬ顔でおまえに渡そう。帰る時、あるいは楽屋で、もしくは自宅で、ポケットに手を入れ、その存在に気付いたモモがきっと僕に電話してくるだろうから。いや、もしかしたら気付かずそのままになるかも……仮に、5年ぶりに押し入れから引っ張り出したかび臭いジーンズの、ポケットの中の10円玉と同じような末路を辿ったとしても、別にいいさ。10年後の僕らの、笑い話の一つになるんだから。

橙に浮かび上がる、今は二番手と化した東京タワーを横目に首都高をかっ飛ばすモモの運転は、酒の入っていないなりに少しテンションが高かった。僕は僕で、この楽しい気分が帰宅の瞬間正気に戻るように覚めることを知っていたから、もう少しだけゆっくり走ってくれないかと祈りながら微睡みの淵を彷徨う。時々二人こうして、日常に背負いこんだ煩わしさの何もかもを振り払うように、真夜中の東京をドライブする習慣が出来た。夜は早くに眠りのスイッチが入る自分と、隙あらば付き合いのある連中と遊び歩くモモなので、気分や予定などのタイミングが合うことは滅多に無いのだが、今日がまさにそれだ。夜が更けても灯りの消えない都内を我が物のように眺めて回ると、不思議な全能感に支配される。あの遠くの灯りはなんだろう。モモ分かる?あれは空港じゃないかな。いいね。どこ行きの飛行機だろう。なんだか、誰も知らないどこか遠くへ、振り返らずに飛んでみたい気分。隣の男が声を上げて笑った。行っちゃう?頭上を抜けた道路標識が次の分岐を示す。瞬時に明日の予定が脳裏を駆け巡った。おかりんへ宛てるラビチャの文面。困り果てた現場の人々の表情。もうすぐ分岐地点だ。腹の底が無性に騒ぐ高揚感。夜の闇とそれを映し出す明かりのコントラストは、10代の頃の無敵さを思い出す麻薬のようだった。そうだ、行こう、行ってしまえ。そうして僕の横で楽しそうに笑いながらモモは、何事もなく分岐を通り過ぎる。僕は静かに真っ直ぐ落ちていく気分を悟られないよう、窓側に頬杖をついた。当たり前だ。本日の夢はこれでお仕舞い。あとはただ帰路をやり過ごすだけの時間が始まる。コンビニでお酒でも買って帰ろうか。そうね。こんな日は、安酒を一杯引っ掛けて寝てしまうに限る。あの一時、お前がハンドルを切りさえすれば、僕は迷わず全部捨てた。嘘じゃないんだ。嘘じゃなかったんだ。さっきまでは。今はもう、ただ冷静なだけの頭でそんなことを思いながら、あの淡い期待も興奮も、愛情と呼ぶには幼すぎる執着も全部、忘れてしまおう、全部。

新曲のミュージックビデオに使う素材。互いのお気に入りの場所を巡って、家庭用のビデオカメラで撮り合う、なんとも青くて楽しい仕事だった。提出後、担当者に頼んで拝借してきた自分の分のデータのコピーを、相方不在のリビングで鑑賞する。よく笑って、たくさん動き回るモモはしょっちゅう画面から消えては、フレームの中に帰って来る。その忙しなさこそがまさにモモだった。そして、いつも必ず僕の手の届く場所へ帰って来るところが。フレームの中で、考え無しに海に向かって駆けて行ったモモが大騒ぎしながらこちらへ戻ってくる。波を蹴散らして、バシャバシャと水しぶきあげながら。瞳が見えなくなるくらい目を細めて笑う顔を、もっとたくさん見たいのに、画面はしばしば酔いそうなほど揺れて、ブレる。なにやってるんだカメラマン。もっとちゃんと撮れよ。そこで初めて僕は、カメラの手前に居た自分が、その時笑っていたことに気が付くのだった。

撮影でご一緒する猫を、ユキがスタジオの隅で撫でていた。近づくオレの顔を見るなり、察したように半歩ほど脇に避けて、猫に触れやすいよう無言で場所をあけてくれる。そういうところが好きだ。だけど全然わかってない。そっちじゃないよなあ。何も言わずに数回、呆けた相方の顔の下、肩口に頭を擦り付けて、それから走って逃げた。綺麗にセットした筈の前髪がほんの数分の間にぐしゃぐしゃになったので、ヘアメイク担当に怒られて一回休み。何が起きたのかきっとわかっていないダーリンが、まだこっちを見ている気配がある。見んなよ。今のは忘れてください。

少しの期待をこめて、ポークカレーを作って待っていたが、あいつからの電話はなかった。お得意のSNSも、その晩は更新されず仕舞いだったので、きっと疲れて寝ているんだろう。それならそれで構わない。おかりんに当てつけのようなラビチャを送って、その日は寝た。誰にも食べられないカレーの行く末なんか、僕の知ったことか。

ユキんちのサボテンに水をあげていたら、うっかり棘に触れてしまった。血が出るようなことはなかったけど、これが結構痛い。そんなにオレに触って欲しくないのかよ。後ろで聞いてたユキが笑いながら、触って欲しくないから棘があるんじゃない?と言った。たしかに。オレならユキが触ろうとした瞬間、体中の棘、全部抜け落ちるようにするけど。後ろで、ユキがまた笑っている。笑いながら、それはどうだろう、と言う。どういう意味かはわからなかった。

新しいサボテンを買った。ピンクの花が咲くらしいから、この子の名前はモモだ。

ユキの家の冷蔵庫には、オレが泊りに行った日の朝、何の気なく残した書き置きが、かれこれ一年ほど貼りっぱなしになっている。書き置き自体は、いつか見た外国の映画か、あるいは子供時分の気に入りだったアニメの主題歌に憧れたような、色っぽい伝言ごっこのつもりだった。もっとも内容は、色っぽさのかけらもない所帯じみたものだけれど。その書き置きが、遊びに行く度に目に入るのだ。ユキが何も言わないので、オレも取り立てて触れることもなく、今では壁の細かな傷と同じに、緩やかに生活へ馴染んでしまっている。さておき正直なところオレは、ユキがあれを捨ててくれやしないかと願っているのだ。はたまた、オレの居なくなった後もずっとそこに残されるのならば、視界に入る度思い出して、昔日の面影をそっと胸に留め置いてくれるのではないかとも期待している。そして恐らく、そうはならないであろうことも分かっていた。毎朝の挨拶を欠かさなかった家族ですら、一度失われたら、顔も声音も5年で優に色褪せた。たかが書き置き一つ、爪痕にもならない。ちっぽけで可愛らしいこの共有が、オレの居なくなった後に、オレの知らないところで、オレの知らないまま、何事もなかったかのようにユキの手でぽいと捨てられるのは、想像の中でさえ、なんだかみじめだった。まあ概ねこのような経緯で、あのメモは明日、ユキの家に寄った時にでも、オレの手でゴミとして捨ててしまうことにする。丁寧に使われて、まだツルツルとしている冷蔵庫の表面から、あくる日紙切れ一片消えたところで、オレは何も言わないし、ユキもきっと、いつもみたいに何も言わない。そうやって、目まぐるしい日常の流れに呑ませてしまおう。なにもかも。やがて失われる、いつかのオレ達のために。

僕の家の冷蔵庫には、相方が泊りに来た日の翌朝残していった「洗濯物・乾燥機の中。またあとでね!」という、アナログな伝言が、かれこれ半年ほど捨てられることもなく貼りっぱなしになっている。手帳か何かを千切って作られたその書き置きの隅には、にっこり顔の生物(四つ足で、耳のような物が生えているので、犬猫の類であると見受けられる)がこちらへ向けてハートを飛ばしていた。相方も毎度、冷蔵庫を見ても特に何も言わないので、この書き置きはこれからも、恐らくずっとここにある。

風邪をひいた。風邪をひいたというか、突然熱が出た。皆に迷惑をかけたことがひたすら申し訳ない。こうして家で一人で寝ていると、悪い考えばかり浮かんでは消え、根拠もなく不安になるので本当に嫌だった。充電中のスマホが鳴るので急ぎの用か否か、それだけ確認しようと手を伸ばす。手の中で、小さく丸く切り取られた銀河一のイケメンが涼しげに笑う。見なかったふりをしようとしたら、寝室のドアが開いて、ユキが立っていた。王子様みたい。今、髪も顔もボロボロで酷いから、絶対に会いたくないんだけど。風邪、移るから入ってこないで。どれも言わなくたって、オレ達には今更すぎることなので、ユキは入ってはこないし、色々な代謝でぐちゃぐちゃの顔に笑いかけてくれることもないし、頭撫でてくれないし、手も繋いでくれないし、泊っていったり絶対しない。代わりに、そのままそこ、ドアの前の廊下に座って30分くらい。コンビニか何かのビニール袋から、買ってきた物を一つずつ、取り出して並べながら、今日あったこととか、今度試したい料理のレシピだとか、そんな話をとつとつとして、最後にヨーグルトとゼリーを冷蔵庫へ収めると帰っていった。玄関のドアの閉まる音を聞いてから、いそいそとベッドを抜け出たオレが、廊下に並べられたペットボトルや冷えピタの様子を見に行くと、何か儀式の供物のように円形状に並べられていることにまず笑い、それからユキの座っていたと思しき円の中心部に腰を下ろすと、床がまだほんのり温かいことに気が付いて、また笑った。ひとしきり笑ったあと、少しだけ泣いて、オレはベッドに戻った。

夜の11時過ぎ。こちらはすっかり眠たいのだが、二人で一枚を分け合う巨大な布団の下で神妙そうに喋るモモの主張はこうだった。オレね実はね。うん。母ちゃんにすげー怒られるから我慢してたんだけど。うん?羽毛布団の上で寝たい。あはは。悪い子だな。わかるよ、僕も。そういう訳で、その日は二人羽毛布団の上で寝た。ぺしゃんこになったら、また新しい物を買いに行けばいい。僕らはデートの口実になるし、布団屋も儲かる。すべて世はこともなし。

空腹で眠れない夜、腹が鳴るのを上手く隠せないオレに、ユキさんは眠るのを諦めてこっそりおにぎりを作ってくれた。おにぎりを食べるオレの横で、明日の朝ごはんの分の米だったけど、眠れなければ疲れもとれないから、おんなじだよ。おんなじなら今食べちゃおう、と言ってユキさんが笑った。そういうの、オレの役目のような気がする。そんなことを思いながら、台所のぼんやり浮かぶ豆電球の下で、一個だけ食べた塩味のおにぎりが、オレが覚えている限り、ユキさんに初めて作ってもらった料理で、世界で一番美味しい料理だった。ユキさんは、もう忘れただろうけど。

ベテルギウスが爆発するらしいというニュースに、ここ三日ほどワクワクしながら空を見上げて過ごすあの子は、天文学の世界じゃ一万年程度は誤差の範囲であることを知っているのか、教えるべきか、毎日考えては、毎日黙っておくほうを選んでいる僕だ。

テレビ画面越しのユキがこちらを見て少し微笑む。闇の中でぽっかりとその四角だけが光って浮かんでいる。このCM出た時のギャラ、300万ぐらいだっけ。結構有名な企業だったもんな。あんまり美味しくないビールをふた口飲んだところで、秋雨の夜に一人で居ることを思い出した。この寂しさを紛らわせたくてテレビを付けたのに、この家も、スマホも、テレビも、どこを見ても結局ユキが居て、1秒も忘れることが許されない。オレだって別に、忘れたいわけじゃないんだけど。最近は、仕事で会うこともほとんど無くて、事務所に寄っても会えない日は、なんだか少し元気が出ない。でももう家も別々だし、わざわざ会おうなんてオレから言うの、いいんだろうか。ユキはなんとも思っていないんだろうか。そんなわけないよな。そんなわけないよ。明日は一緒にご飯食べに行こうって言ってみようかな。そうだよ。そうしよう。眠い。だめだ。もう寝よう。それがいい。あーユキ夢に出てこないかな。出てきて。ユキ。……来てよ。

モモとはかれこれひと月会えていないが、長い長い海外ロケの終わり、ようやっと日本に帰るというその日。ストライキの巻き添えを食い、乗る予定だった飛行機が飛ばないと言うので、どうにか代替の便を探して乗り込んだまではいい。当初の予定には無いフランクフルトでの乗り継ぎに奇跡的に成功した僕が、希望に満ちた顔でモモからの着信を確認した時には色々と手遅れだった。誰にも告げずに出国したことや、無駄になった旅費や労力よりも何よりも、本来より一日早く会える筈だった計画のせいで、本来よりも二日遅れての再会になってしまったことにいたく傷付いたらしい。土産のワインボトルを抱えたまま、中身が温もり切ろうとも未だソファーから起き上がろうとしないモモを励ますのに、僕は更に12時間費やすこととなった。

ユキとはかれこれひと月会えていないが、同じ空の下生きているから大丈夫などと気休めを言う余裕もなくなってきたオレは、某月某日深夜未明に空港へ向かうタクシーの中、スマホ片手にパリ行きのチケットを買った。早朝の便に首尾よく乗れたら、今日の夜にはきっとユキとハグしていることだろう。復路の空港で出迎えるオレを見たら、一体どんな顔するだろう。そうして日本にたどり着くまでの丸一日、空の上の、旅客機という名の小さな箱の中で、離れようもなくずっと一緒に居られるって寸法だ。完璧な計画に勝利を確信しながら、羽田空港の国際線ターミナルへ向かうオレの足取りは軽かった。ああ、早くユキに会いたいなあ。

オレが、久方ぶりに乗った山手線の車窓から見える花霞にはしゃいでいた頃、恋人はノルウェーの森の中で雪に埋もれ遭難しかかっていた。